【償い/さだまさし】歌詞の意味を考察、解釈する。

「さだまさし」というシンガーソングライターは、70年代から音楽活動を続け、同時に小説家やタレントとしても知られています。
今回は、そのさだまさしの曲「償い」に焦点を当て、この曲が使われた予想外の状況や、歌詞に実話が反映されている要素について詳しく紹介します。

交通事故の恐ろしさ

まず、さだまさしの「償い」という楽曲について詳しく説明しましょう。


さだまさしは、日本のシンガーソングライターで、ヒット曲「関白宣言」などで知られています。
彼の1982年12月にリリースされた7thアルバム「夢の轍」には、「償い」という楽曲が含まれています。
この曲はシンプルなマイナー調のフォーク曲であり、そのシンプルさが歌詞の奥深さを一層引き立てています。


この曲は、実際の交通事故に基づいて制作されたもので、その事故が人々の人生に大きな影響を与えた状況を描いています。
歌詞は「ゆうちゃん」というキャラクターの視点から語られていますが、実際には被害者の奥様から得たエピソードが元になっています。
重要なのは、歌詞が被害者ではなく加害者の視点から語られているという点です。
この曲を通じて、交通事故の恐ろしさが被害者だけでなく加害者も苦しむことを示唆しています。

『償い』を聴いたことがありますか?

「償い」の歌詞の感動的な内容から、この曲は予想外の場所で使用されました。
その特別な場所について、詳しく紹介したいと思います。


「償い」は、裁判官が特別な状況で被告人に対して伝えたい「知るべき歌」として注目されました。2001年4月、東急田園都市線で泥酔した男性と少年4人との口論が暴力事件に発展し、男性が意識を失いくも膜下出血で亡くなるという悲劇が発生しました。
この事件で2人の少年が主犯格として傷害致死罪で起訴され、裁判が行われました。
少年たちは反省の言葉を述べましたが、正当防衛を主張し、落ち着いた態度で話す姿勢が反省の意を欠いているように見えました。

2002年2月の判決公判で、2人には不定期実刑が宣告されました。
判決の理由を説明する際、裁判官は少年たちに向かって「さだまさしの『償い』を聴いたことがありますか?」と問いかけました。
そして、「せめて歌詞だけでも読んで、なぜあなたたちの反省の言葉が他人に伝わらないのかを理解してほしい」と述べました。

この出来事は一般メディアでも「償い説論」として取り上げられ、多くの人々に認知されたことでしょう。
重要なのは、単なる表面的な反省ではなく、真摯な謝罪の気持ちを理解してもらいたかったという点です。


「償い」の歌詞には、命の尊さや罪を背負って償うことの意味が描かれており、そのテーマから、この曲は運転免許試験場の教育映像にも採用されています。
この曲は、私たちが乗りこなす車やバイクが、時に命を奪う危険な存在であることを思い起こさせるために最適な楽曲と言えるでしょう。
さらに、交通安全キャンペーンなどでの使用例も存在します。

過去の過ちは取り返しはできませんが、それを受け入れることはできる

「償い」は裁判所や運転免許試験場で採用されたことがある楽曲です。
この曲の興味深い歌詞について、詳細に解説してみましょう。


この曲の主人公であるゆうちゃんは、お酒を飲まずに貯金ばかりしていると周りから笑われる存在から物語が始まります。
しかし、彼はそんなバカにされる状況でもおだやかに笑みを浮かべて許しています。
ただ、その笑顔の背後には何か秘密が潜んでいるようです。

僕だけが知っているのだ 彼はここへ来る前にたった一度だけ
たった一度だけ哀しい誤ちを犯してしまったのだ
配達帰りの雨の夜 横断歩道の人影に
ブレーキが間にあわなかった 彼はその日とても疲れてた

ゆうちゃんはおそらくトラックの運転手をしていたでしょう。
そして、一度だけ、極度の疲労から仕事中に事故を起こしてしまったことがあります。
その日は雨が降り、夜で視界が悪かったかもしれません。
不意に人影に気付いた瞬間、ブレーキを踏む間もありませんでした。


人殺しあんたを許さないと彼をののしった
被害者の奥さんの涙の足元で
彼はひたすら大声で泣き乍ら
ただ頭を床にこすりつけるだけだった

その事故で被害者の男性は命を落としてしまいました。
その男性の妻は、日常が奪われたことに激しい怒りをゆうちゃんにぶつけました。
ゆうちゃんは取り返しのつかない誤りを痛切に後悔し、泣きながら床に頭をこすりつけることしかできませんでした。
おそらく、「あの時に速度を抑えていたら」「もっと注意深く運転していたら」という同じような考えが頭を巡り、自己責任の感情に囚われ続けたのでしょう。

それから彼は人が変わった何もかも
忘れて働いて働いて
償いきれるはずもないがせめてもと
毎月あの人に仕送りをしている

その事件以降、ゆうちゃんはひたすら働き続けました。
おそらく、何か罪を償う方法を模索していたのでしょう。
もちろん、犯した罪を完全に償うことは難しかったでしょうが、せめて何かの役に立てればという思いから、被害者の残された女性に仕送りをすることを始めたのです。
ゆうちゃんは、貯金をしていたわけではなかったようで、「薄い給料袋の封も切らずに」という歌詞から判断すると、ほぼ全ての収入を女性に送っていたのでしょう。


今日ゆうちゃんが僕の部屋へ 泣き乍ら走り込んで来た
しゃくりあげ乍ら 彼は一通の手紙を抱きしめていた
それは事件から数えてようやく七年目に初めて
あの奥さんから初めて彼宛に届いた便り

ゆうちゃんは、その後も長らく仕送りを続けたでしょう。
相手の要望や法的義務からではなく、誠実な謝罪の気持ちから行動することは、決して簡単なことではありません。
そして、7年後には、被害者の妻から手紙が届いたとされています。

「ありがとうあなたの優しい気持ちはとてもよくわかりました
だからどうぞ送金はやめて下さいあなたの文字を見る度に
主人を思い出して辛いのですあなたの気持ちはわかるけど
それよりどうかもうあなたご自身の人生をもとに戻してあげて欲しい」

自分の夫を亡くした相手に対して、「ありがとう」という言葉を口にすることは、非常に難しいでしょう。
手紙であっても、その感情を表現するのは厳しいことだと思います。
そして、お金の送金を中止して欲しいとの要望がありました。
その背後には、そのお金を受け取るたびに、夫を失った悲しみを思い出す苦痛があるのでしょう。

事故は被害者だけでなく、加害者であるゆうちゃんにも人生を変える大きな影響を与えました。
被害者の妻は、ゆうちゃんが苦しんでいることを理解し、それでも仕送りを途切れることなく続けた彼の優しさに気付いた可能性があります。
そして、彼が心からの償いを考えていることに気付いたのかもしれません。
そのために、「あなた」に戻ってほしいという願いが手紙に込められていると考えられます。


手紙の中身はどうでもよかった それよりも
償いきれるはずもない あの人から
返事が来たのが ありがたくて ありがたくて
ありがたくて ありがたくて ありがたくて

ゆうちゃんは手紙が届いたこと自体を非常に喜んでいます。
自身が直面した状況を思い出すことは苦痛であるはずなのに、手紙を受け取ったことに感謝していたのでしょう。
自分が償いきれないことを理解しているからこそ、「わずかながらでも償いになれれば」という考えが浮かんだのかもしれません。
そして、「ありがたくて」という言葉の繰り返しは、ゆうちゃんの言葉にできない感情が伝わってくるようです。

神様って 思わず僕は叫んでいた
彼は許されたと思っていいのですか
来月も郵便局へ通うはずの
やさしい人を許してくれて ありがとう
人間って哀しいね
だってみんなやさしい
それが傷つけあって
かばいあって
何だかもらい泣きの涙が
とまらなくて とまらなくて

ゆうちゃんの罪は完全に償うことは難しいものです。
しかし、被害者の妻はゆうちゃんがその罪に縛られずに新たな人生を歩むことを望んでいるようです。
ゆうちゃんの真摯な謝罪が、時に相手に届くことがあるのです。
過去の過ちは取り返しはできませんが、それを受け入れることはできるのかもしれません。
このような道を通じて、ゆうちゃんだけでなく、被害者の妻も事故の悲しみから立ち直ることができるのかもしれません。

まとめ

さだまさしの「償い」は、非常に重厚で、生きる意味について深く考えさせられる内容を持っています。
この曲を少年たちに伝えた裁判官も、ゆうちゃんのように真剣に自分たちの罪と向き合い、償いとは何かについて考えさせたいと願ったのかもしれません。