【洗脳 feat.DOGMA & 鎮座DOPENESS/Awich】歌詞(リリック)の意味を考察、解釈する。

三者三様の社会風刺

2022年7月8日、歴代最長の首相通算在職日数を誇り、近代日本政治の象徴とも呼べるべき安倍晋三元総理大臣が射殺された。

射殺したのは旧統一教会の信者を母親に持つ元自衛官。
旧統一教会に家庭を壊された彼は広告塔でもあった安倍元総理暗殺に狙いを定め、それを完遂した。

1990年代に霊感商法や合同結婚式で話題となった旧統一教会だが、政治との結びつきは強く、関係を持つ政治家が次々と明るみに出てくると与野党・保守革新・右翼左翼が入り乱れる混迷の政局へと突入する事となる。

ラッパーが政治や社会を糾弾するのは珍しいことではない。
今回取り上げる「洗脳 feat. DOGMA & 鎮座DOPENESS」はAwich(エイウィッチ)、DOGMA、鎮座DOPENESSという三人の個性派ラッパーがそれぞれの場所から社会を糾弾し、皮肉っている。

この「洗脳」が発表されたのは2020年。
安倍元総理が射殺される二年も前の作品だが、社会に充満する閉塞感、違和感、不平等はそれよりももっと以前から日本に充満していた。

共通するワードは「洗脳」である。
価値観をかき乱し、正常な判断ができないようにするやり口が政治、メディア、労働、学校、家庭を跋扈するこの世の中で、三人のラッパーは何を糾弾しているのか。

今回はこの「洗脳」を考察してみたい。

人間の在り方を糾弾するAwichのヴァース

【Awich】

下界に忍ぶ三体の菩薩が

Neo babylonia の街を歩く

丸く背を曲げ足取り深く

毒を持つ蛇を好む孔雀

Street democracy

Pussy Power Politics

スキャンダル種まき分割統治

指をさし合う愚かな凡人

Stigma 中心勢力解体

Not nice not nice not a ting nice

誓約書サインするボールペンナイフ

ビートを殺め金を生む Midwife

Not nice not a motherfucking ting nice

いけないいけないあの子の末路

イかないイかない不感のマグロ

失望 借金 よく効くお薬

Don’t open yo fuckin mouth

運命という名の情報戦

とは知らずに受け取る処方箋

セックス スポーツ スクリーン

目が眩む愚民 操るルーティーン

しっかり咥えたルアーの針

ゴクリ飲み込み 後頭部を圧迫

失脚

Now what you wanna do?

バカばっかだ全く

三人の中で最も身近な事柄を歌っているのがAwichだと感じる。
自らを孔雀(この「洗脳」が収録されているアルバムのタイトルであり、孔雀は毒がある虫や蛇を好んで食べる、という要素を自らに喩えている)になぞらえ、沖縄という土地に生まれ育ったAwichならではの戦後GHQによる支配と、特に女性の生き方を歌っているのではないだろうか。
「セックス、スポーツ、スクリーン」というのはGHQが策定した戦後日本における当地方針の一つで、セックス(性風俗、性産業による堕落)、スポーツ(プロスポーツへの熱狂による政治への不関心)、スクリーン(芸能や娯楽による多幸感)をもって戦後日本を文字通り洗脳しようとした政策である。
いや、実際に我々日本人はその政策により価値観を破壊され、日本という国は戦前とは全く違った姿へと変貌を遂げた。
資本主義とグローバリズムの蔓延は格差と欲望を生み出し、幼くして自ら命を断つ若者が急増した。
ルッキズムは留まるどころか加速し、「美しくなければ人ではない」という暗黙の了解と貧富の格差は未婚率の上昇と少子高齢化に大きく作用している。
日本語ラップのクラシックの一つ、「ロンリーガール」でK DUB SHINEが歌った少女の夢は未だ消息不明で、フェンディやヴェルサーチだけでなく、あらゆる物欲の前に人々はへつらっている。
SNSでは弱い者が更に弱い者を攻撃し、ツイッターは情報発信ツールの側面に最も身近で手軽な精神攻撃兵器という顔を持つようになった。
洗脳されているのは若者だけではない。
政治家、資本家、その下にいる有象無象の俗物達も皆、欲望に取り憑かれ、「自分が死ぬまで幸せならそれでいい」とばかりに手段を選ばない生き方を選ぶ。
持たざるものは肉体と精神をすり減らし、わずかばかりの賃金と「やり甲斐」という偽りの充足に自らを洗脳しなければ生きてゆけない世の中となった。

禍々しく毳毳しいビートに乗せてAwichはそれらを皮肉っている。
そしてこう締めくくる。

「バカばっかだ全く」

偽りの平等と幻想の平和

【DOGMA】

もう 飽きたんだよ 味のしないガム

派手なビジュアルに客は並んでる

引っ張って押した 一般の世間体

目に見えねーヒモが見えるぜ

究極 面白けりゃいい

感情移入で洗脳するゲーム

サテンシャツ着たペテン師は踊る

マウンティングとるマーケティングビジネス

バズれスキャンダル

アタりゃ札束が頭ひっぱたく

良いか悪い 毒も使い方

殺しも数やりゃ独裁者と化す

だれかの不幸に群がる癖

てめぇの自慢がつまみの酒

未曾有の恐怖に操られてまで

欲しがる情報源は半透明

この命で弄ばれちゃ菩薩に輸血で死ぬか大怪我

ブルーシートの奥にいるガキの死に様なんざ誰の趣味のメディア

欲は底なしもう勘ぐるな

踊れ日本のメイドインアメリカ

形変えてく快楽 快感の連続

バカばっかだ全く

バカばっかだ全く

DOGMAのヴァースもAwich同様、アメリカの戦後統治を中心に歌われている。

進駐軍が駐留していた戦後直後の日本では、日本の子どもたちが「ギブミーチョコレート」と叫び、チョコレートやガムといった嗜好品をねだっていたが、そのガムには既に味がなくなっているということに多くの人々は気づいていない。
手を変え品を変え、次々と提供される娯楽という「毒」だが、作られたまがい物には価値はない、といったところだろうか。
インスタグラムにアップされた自撮り、映える風景、おいしそうな料理、用が済めば自撮りは修正を外され元の醜い顔に、ハリボテの風景に温度はなく、料理は食べられることもなくゴミ箱へ捨てられる。
迷惑系Youtuberたちはいたずらに人々の好奇心を煽り、再生数という承認欲求に洗脳された操り人形となった。
引き換えに得られる偽りの成功と札束に人々は洗脳されているのである。
目の前で誰かが死んだら救急車を呼ぶ人と写真を撮る人、どちらが多いのだろうか。
メディアは刺激を求め続け、捏造されたシナリオに人々は一喜一憂する。

日本は世界でも有数の豊かな国である。
治安は守られ、食事は美味しく、あらゆるものがある。

しかし、希望だけがない。

私はこの曲を聞いて村上龍「希望の国のエクソダス」のその一節を思い出した。

信者とは、儲けると書く

【鎮座DOPENESS】

カミに数字が書かれてる

そのカミをみんなで信じてる

御多分にもれずこの僕も

カミの力の元おくっている日常

アスファルトよろしく敷き詰められた

ルールや普通という言葉

思考回路に巧みに絡みつき

根をはられたが運の尽き

それは想像力に影響して

我々の行動パターンさえも設定

プログラミング教育

ウィーアーザロボットまさしく クラフトワーク

出来の違いで仕分ける ベルトコンベアー

揺り籠から墓場 そびえ立つ

三角 立場 力 競争

勝敗 商売 になっちゃってる 戦争

あっちとこっち どっちもどっち

にっちもさっちも 行かなくなりゃ

どかーんと一発 ぶち込む 核爆弾

人類皆運命共同体

今地球は泣いています!ナイトメア!

不安材料は絶えない 是非この機会

契約書に判子と指定の口座に

お振り込みしていただければと!毎度!

バカばっかだ全く

この歌を締めくくるのは三人の中でも特に個性的な鎮座DOPENESSである。
特に「金」について歌われている。

冒頭でも書いた旧統一教会だが、彼らの目的は何だろうか。
言うまでもなく金である。
彼らに平和や平等を願う気持ちなどない。
いかにして多くのお布施・寄付金を集めるか、宗教というのは巧みに作られた集金システムである。
マルチ商法も同じようなものだが、救われるのは最上部に位置する一握りの人間だけで、下にいるものが多額の金銭と引き換えに得られるのはまやかしの充足である。
鎮座DOPENESSは紙幣=紙と、神をかけ、宗教にとどまらないあらゆる洗脳の向こう側にいる「カミ」を皮肉っている。
幼稚園から小学校、中学校、高校とひたすらに個性を封じ込められ、いざ社会に出た時に投げかけられるのは「あなたの個性はなんですか」という残酷な言葉である。
その回答さえもマニュアル化され、面接官もあなたも表面だけの綺麗事でお約束のような受け答えを演じている。
その受け答えによって人々はベルトコンベアーで仕分けされ、各々の決められたルートを歩むことになる。

朝早く起き、同じ運命を辿っている他のロボットと共に満員電車に揺られ、何のための仕事なのかわからないまま搾取されたわずかばかりのカネを求め夜遅くまで働く。
その運命は揺り籠から墓場まで決まっているのである。

鎮座DOPENESSは戦争にも噛みつく。
大量の武器は敵味方関係なく売りさばかれ、死の商人は巨万の富を得る。
その足元に死屍累々の人々の遺体を踏みつけ、平和と平等を謳う大国はどうにかして戦争を起こそうと画策し続けている。

この歌は、自ら考えることを放棄した大勢の人々に向けたアジテーションである。

目を覚ませ。
洗脳を解け。

この3人のラッパーは、その生き様と作品で人々を洗脳から解放しようとしている。

その思いが「バカばっかだ全く」という一節に込められているのではないだろうか。