現代において、「俺より先に、寝てはいけない! 俺より後に起きてもいけない!」と公然と主張すれば、社会から非難の声が上がり、結果としてSNS上で炎上し、深刻な事態に発展する可能性は高いでしょう。
男女平等を尊重せず、女性を軽視するとして、正義の名の下に憤りを表明する人々から非難を浴び、それは容易に済まされることではないでしょう。
ただし、「関白宣言」という言葉に込められたメッセージは、今の時代においても、そして過去も未来も、その価値を失っていないと思います。
この曲をじっくりと聴き込めば、そこには愛するパートナーへの深い思いが伝わってきます。
私自身、30年の結婚生活を送る者として、この曲を聴いて中学生だった頃の感慨とは異なる深い感動が襲ってきて、思わず涙がこぼれました。
歌詞の本質は、愛する人への深い愛情を表現するもの
1970年代初頭、アメリカから始まったウーマンリブ運動の波が日本にも押し寄せ、その影響でピンク色のヘルメットを身に着け、活動を行う過激な団体「中ピ連」が誕生しました。
中ピ連は1972年から1974年にかけて社会的な注目を集めましたが、1975年に解散しました。
その後、1977年には中ピ連の流れを汲む形で日本女性党が結党され、参議院選挙に候補者を立てましたが、党としての支持を得られず解散しました。
しかし、70年代後半には「女性の強さ」が社会に広く浸透し、同時に男性の地位が相対的に低下する傾向も見られました。
そして1979年、テレビではテリー・ファンクとドリー・ファンク・ジュニアが日本のプロレス界に登場し、強い男性像を演出する一方で、日本野球界では「江川事件」が起こり、大人たちの事情が世間に露呈され、日本の男性像にも悪い印象を与えました。
このような社会の背景を踏まえた上で、「関白宣言」が発表されました。
当時、歌詞が男性目線や上から目線だとして女性団体から反発や抗議を受けたことはありましたが、歌詞の本質は、愛する人への深い愛情を表現するものであると私は考えています。
曲の雰囲気や歌唱によって、その意図が完璧に伝わっています。
若かった頃と今では、その重みを感じる度合いがまったく異なる
「関白宣言」は160万枚以上の売り上げを記録しましたが、作者自身は「一番売れた曲=一番良い曲ではない」と述べています。
これには不思議な感じもしますが、確かに人気投票があるなら、私はバラード曲の「療養所(サナトリウム)」やコメディータッチの「パンプキン・パイとシナモン・ティー」を推したいと思います。
「関白宣言」が気になる理由は、私の人生が完全に折り返し地点に差し掛かったことにあります。
私が50歳を超え、自らの余命を意識し始めたからです。
まあ、正確には「余命」という言葉はちょっと違和感がありますね。
もっと適切な表現は「命に向かっている」という感じがしますが、それはさておき、歌詞の最後の部分はコメディから一気に感傷的な雰囲気に変わります。
若かった中学生の頃と今では、その重みを感じる度合いがまったく異なります。
俺より先に死んではいけない
例えばわずか一日でもいい
俺より早く逝ってはいけない
何もいらない 俺の手を握り
涙のしずく ふたつ以上こぼせ
お前のお陰で いい人生だったと
俺が言うから 必ず言うから
愛とは、形や姿が失われた後も、心に残り続けるもの
こんなにも力強い宣言はなかなかありませんね。
これから一緒に生活するパートナーに対して、こんなにも深い愛情表現は滅多に見られないでしょう。
私はもう本当に、奥さんにこの言葉を伝えたいし、それができなくなった時には、逆に奥さんからそんな言葉をもらえたら、最高だなと思います。
もちろん、お互いにそうであってほしいと思います。
結局、「関白宣言」は男性の自己中心的な意見であり、わがままな主張であることは十分に理解していますが、それでもこの主人公の率直な「愛の歌」なのです。
「好きです」「愛しています」という単語を使わずに、こんなにも複雑な愛情表現をするなんて、ちょっと子どもっぽいかもしれませんが、愛があればこそ通じるのです。
愛がなければ、それはただの自己中心的な言動にすぎません。
愛とは、形や姿が失われた後も、心に残り続けるものです。
この「関白宣言」から数十年後の「関白失脚」が訪れるまで、この美しい感動に浸っていたいと思います。