【言って。/ヨルシカ】歌詞の意味を考察、解釈する。

一瞬のうちに多くのファンを惹きつけたヨルシカが披露する「言って。」という曲。
彼らの代表的な楽曲として知られるこの一曲を紹介し、歌詞の意味に独自の解釈を加えたいと思います!

ヨルシカ「言って。」

「言って。」という曲は、2017年にデビューした音楽ユニット「ヨルシカ」の代表的な楽曲のひとつです。
この楽曲は、YouTubeで2017年6月28日に公開され、わずかな時間の間に多くのファンの心を鷲掴みにしました。
実際、この曲を通じてヨルシカのファンになった人々もたくさんいます。

「n-buna(ナブナ)」が作詞作曲を手がけ、独自の世界観を築き上げています。
一方、「suis(スイ)」の優しく切ない歌声は、これまさに調和しており、聴く者に深い感銘を与えます。
この曲は、その深みが無限に広がるような印象を受けることができます。

その中毒性の高さから、何度も繰り返し聴きたくなることでしょう。
そして、「言って。」は、2017年6月28日にリリースされたアルバム「夏草が邪魔をする」に収録されています。

どこか切ない雰囲気のMV

ヨルシカの音楽ビデオは非常に個性的です。
手描き風のオリジナルキャラクターが日常のさまざまな場所に登場するMVが今回の作品となります。
このMVは、可愛さと同時にどこか切ない雰囲気を漂わせています。
特に、古びたマンションや工場の現場など、社会の裏側を暗示するようなシーンが印象的です。
歌詞の一部「人生最後の日も~」と社会の暗喩的な描写が交差することで、非常に感傷的な印象が生まれます。
その感傷をsuisの歌声が一層引き立て、楽曲「言って。」の魅力を際立たせています。

実写と架空のキャラクターの共存によって、何か虚無感も漂ってくるように感じます。
この要素を考慮しつつ、歌詞の解釈に移ってみたいと思います。

自身の生涯が無駄ではなかったことを「君」に伝える

それでは、楽曲「言って。」の歌詞の意味に迫ってみましょう。
個人的な解釈を交えながら、曲が持つ感情や切なさを解き明かしてみます。
ただし、これは私の見解であり、異なる考え方もあるかと思います。


言って
あのね、私実は気付いてるの
ほら、君がいったこと
あまり考えたいと思えなくて
忘れてたんだけど
盲目的に盲動的に妄想的に生きて
衝動的な焦燥的な消極的なままじゃ駄目だったんだ

「私」と「君」という2人のキャラクターが登場します。
歌詞の中で「私」が「君」に向けて何かを伝えようとしている部分がありますが、過去形が使用されることで、「君」はこの場に存在しないか、またはこの世にいない可能性が示唆されています。
また、「君」が過去に伝えていたことを、「君」が生きている間に叶えることができなかったことに対する悔恨が表現されているようです。

「盲目的に盲動的に~」という部分からは、「私」が内向的な性格であることが窺えます。
さらに最後の歌詞からは、焦りや衝動的な行動に駆られることもあったことが示唆されています。
この行動主体が具体的に誰を指しているのかは明確ではありませんが、歌詞全体の文脈から、「私」自身や、または過去に存在していた「君」に関することかもしれません。


きっと、人生最後の日を前に思うのだろう
全部、全部言い足りなくて惜しいけど
あぁ、いつか人生最後の日、君がいないことを
もっと、もっと、もっと
もっと、ちゃんと言って

楽曲の1番のサビにおいて、「人生最後の日を前に」というフレーズが登場します。
これは、「私」が死ぬ時を指しています。
この瞬間に「私」は何を思うのか、何を伝えたいのか、その意図が描かれています。
しかし、具体的な内容は後の歌詞で解明されることになります。

現段階では明らかなことは、「私」がたくさんのことを伝えたいということです。
この願望は、最期の日に後悔しないよう、大切な思いや言葉をしっかりと伝える必要性を示唆しているかもしれません。
死の瞬間に過去の後悔を避けるために、今、言葉として残すべきことを伝える重要性を感じていることが伝わってきます。


あのね、空が青いのってどうやって伝えればいいんだろうね
夜の雲が高いのってどうすれば君もわかるんだろう
言って

空の青さや夜の高い雲の理由は、人に説明するのが簡単ではないですね。
この難しさが、「君」への感情や思いを伝えることも同様の難しさを持っているかもしれません。
その欲求と同時に、その表現の難しさにも気づいている。
実際、伝えにくい部分こそが、本当に伝えたい核心なのかもしれません。

自分の感情や考えを相手に理解してもらうためには、言葉にすることが必要です。
しかし、それが簡単ではないことは、大人になっても変わりません。
大人になると、その難しさを認識してしまい、伝えることをあきらめることもあるかもしれません。


あのね、私実はわかってるの
もう君が逝ったこと
あのね、わからず屋って言うんだろうね忘れたいんだけど

この部分では、「君」の死が明らかにされています。
言葉「実は」が示す通り、最初の段階では「私」は「君」の死を受け入れていなかった可能性があります。
この点を考慮しながら、1番のサビと関連づけてみましょう。
何を伝えたかったのか、と問いかけていますが、それは「私」が「君」が亡くなったことを受け入れていなかったため、まだ話すことができると信じていたからかもしれません。

身近な人が突然いなくなると、最初はその現実を受け入れるのは難しいものです。
そのため、「君」が言葉を発することができない状態でも、未練や願いがあり、話しかけたいという思いが残っていると感じられます。
何故逝ってしまったのか、約束していた未来はどうなるのか、そして「私」を一人きりにしてどうするつもりだったのか。
これらの疑問や感情が心に渦巻いています。

しかし、「君」との会話や伝え合いがもはや叶わないことを「君」の死と共に受け入れなければなりません。
これ以上「君」は存在せず、その現実を直視する必要があるということが、この部分で描かれています。


もっとちゃんと言ってよ
忘れないようメモをしてよ
明日十時にホームで待ち合わせとかしよう
牡丹は散っても花だ
夏が去っても追慕は切だ
口に出して 声に出して
君が言って

この部分では、「私」の強い感情が強調されています。
命令口調が散りばめられていることから、死んだ「君」の側で「私」が思いを叫ぶような様子が描かれています。
牡丹の花は散っても美しさが残るという比喩は、死者の美しい思い出や影響が残ることを意味しているでしょう。

次の歌詞には、切なさが滲んでいます。
夏と死を連想させるお盆が登場し、「追慕」という言葉が、故人を懐かしむ思いを表現しています。
夏が過ぎ去ると同時に、故人への思いが複雑に交錯し、その切なさがより強調されています。

楽曲の最後の部分は、まるで苦しい胸の奥底から湧き出てきたかのような感情が伝わってきます。
歌詞からは、「私」が「君」に伝えたかったのは1つだけ、つまり、「君」が死のうとしていることをなぜ話してくれなかったのか、という疑問です。
死にたい気持ちを他人に打ち明けることは、どんなに近しい人間関係であっても勇気を要する難しいことです。
それでも、「私」はその秘密を共有してほしかったのです。

「君」が抱えていた悩みや死にたい気持ちを知らなかったことに、矛盾を感じ、その悔しさが描かれています。
そして、この後悔に似た感情は毎年夏の終わりに訪れ、季節の変わり目が、「私」の複雑な感情を引き起こすことを示唆しています。


そして人生最後の日、君が見えるのなら
きっと、人生最後の日も愛をうたうのだろう
全部、全部無駄じゃなかったって言うから

「人生最後の日」とは、以前のサビで示された通り、この部分でも「私」が死ぬ瞬間を指しています。
「君が見えるのなら」というフレーズは、幽霊としての「私」と「君」が再び出会うことができるというイメージを描いていると考えられます。
この再会の場で、「私」と「君」がどのような交流を持つのかが探求されています。

その場で行われることは、当然ながら愛を伝えることです。
そして、「私」が特に伝えたいのは、自身の生涯が無駄ではなかったことを「君」に伝えることです。
生前伝えられなかった感情や思い、そして諦めてしまった気持ちを、「君」との再会の場で丁寧に伝えたいと願っています。
また、「君」よりも長く生きた分、経験した風景や楽しい瞬間についても語りたいという欲求が表現されています。

死後の世界での再会を通じて、言葉で伝えることの難しさや諦めずに伝えたい想いが強調されています。
そして、「君」が亡くなった日から現在までの日々が、すべて大切な瞬間であると感じられるように願っていることが示されています。


あぁ、いつか人生最後の日、君がいないことがまだ信じられないけど
もっと、もっと、もっと、もっと
もっと、もっと、もっと、君が
もっと、もっと、もっと、もっと
もっと、ちゃんと言って

「君」の死を理解することはできたものの、納得することはできない「私」の心情が描かれています。
歌詞に繰り返し登場する「もっと」という言葉が、その切なる叫びを表現しています。
また、MVとも連動した解釈によれば、基本的に無表情な女の子である「私」が、最後の一瞬で悲しげな表情を見せる場面があります。

この「もっと」という言葉は、歌詞の中で繰り返し使われることで、深い感情や欲求が表現されています。
特に最後の「もっと」の一瞬で見せる悲しげな表情は、最後に「君」の死を受け入れた瞬間を暗示しているように感じられます。
これは、「私」が「君」の死を完全に受け入れ、その現実を直視し、感情を表現している瞬間である可能性があります。


これは従来の解釈を踏まえた上でのサビ部分のMVの考察です。
「私」は無表情ながら、サビでは明るくポップな態度を見せています。
このギャップから、恐らく「私」は内心では元気を装っているのだろうと考えられます。
この振る舞いは、歌詞に込められた感情と対照的です。

この両者を照らし合わせると、「私」は表面的には元気そうでも、内部では本当の感情を隠していると思われます。
このギャップは、「私」に感情移入を促す要因となり、視聴者にとっても共感の対象となりえることでしょう。

「私」の複雑な感情と思考

MVに登場するキャラクターは、「私」らしき存在で、街の風景で活発に動いたり、リズムに合わせて踊ったりしている可愛らしい印象があります。
しかし、このキャラクターは無表情にもかかわらず、口の動きや目の閉じる仕草はありますが、感情の表れはほとんどありません。
ただ、最後の「もっと」のシーンで初めて感情が顔に表れています。

このキャラクターの無表情さは、おそらく歌詞のテーマとリンクしているでしょう。
可能性として、この少女は「君」がいなくなる現実を受け入れることができなかったのかもしれません。
タコと戯れる場面や青空を見上げる場面でも、どこかぼんやりとした表情が見られます。
これは、「君」の不在をまだ受け入れられていない心情を反映しているかもしれません。

歌詞には、「君」の死因やその背後にある事情についての疑問や考察が散りばめられています。
自分なりに伝えることの難しさを考える一方で、なぜ「君」が何も伝えずに去ってしまったのかという疑問も浮かび上がります。
このような思考プロセスを通じて、「私」は徐々に現実を受け入れようとしているように思えます。

歌詞の途中で、「私」が気付くことが示唆されます。
それは「君」が何も伝えずに亡くなったことであるという事実です。
最後に「もっと」を繰り返すことで、「私」はその事実に気付いたのかもしれません。
このことに対する寂しさや失望が、「私」の内面に影を落としていることが示唆されます。

最終的に、「私」は自分の感情を表現することが難しい不器用な性格であると描かれています。
その中で、彼女がようやく言葉にできるような表現が「言って。」であると考えられます。
このようにして、「私」の複雑な感情と思考が描かれ、楽曲のメッセージが表現されています。

n-bunaさんの感情を映し出しているのかも

「言って。」の歌詞は、何も伝えずに亡くなってしまった「君」への感情を表現したものであるとされています。
また、この楽曲がn-bunaさんの実体験を反映しているのではないかという見解も浮上しています。
この考えは、「言って。」が公開された当時、n-bunaさんと親交のあった椎名もた(ぽわぽわP)が亡くなったという出来事に基づいています。
椎名もたさんの死因は明らかにされていませんが、自殺という噂も広まっています。
その中で、電車への飛び込みが関連付けられているとも言われています。

このような背景から、「言って。」の歌詞には実際にn-bunaさんが椎名もたさんに対して抱いていた感情や思いが投影されている可能性があるとされています。
歌詞中で表現される、どうして彼が自分に相談してくれなかったのかという思いは、実際の出来事に対するn-bunaさんの感情を映し出しているのかもしれません。

明日十時にホームで待ち合わせとかしよう

この歌詞の一部分は、先述の噂と驚くほど一致しています。
具体的には、どうして飛びこむ前に自分に相談してくれなかったのか。
死ぬ前に1回会おうと思ってくれなかったのかという感情を表現しているように思われます。

まとめ

「言って。」の歌詞の解釈についてお伝えしましたが、非常に感動的で切ない歌詞でしたね。
この楽曲は、明るいメロディとは裏腹に深い重みを持っており、その矛盾が魅力のひとつと言えるでしょう。

生と死というテーマを扱いながら、軽やかな旋律が心に刺さります。
この矛盾が、聴く人々に深い共感を呼び起こすのかもしれません。
この曲が今後ますます広く認知され、多くの人々に届くことでしょう。

ヨルシカのこれからの活動も楽しみですね。
彼らの音楽がさらに多くの人々に触れる機会が増え、新たな感動を生み出すことを期待しています。