私は藤井風の魅力に取り憑かれてしまいました。
彼の音楽は素晴らしいのです。
そのメロディーはもちろん素晴らしいのですが、彼の歌声も魅力的です。
その独特の力強さを感じさせない、リラックスした歌声には唯一無二の魅力があります。
また、彼の歌詞も非常に優れています。
最近では珍しいくらい、ラブソングばかりでなく教訓に満ちた曲も多くあります。
しかし、これらの歌詞は決して説教臭くなく、自然に心に響いてきます。
彼がある思想家に影響を受けているという話もありますが、その思想自体は素晴らしいものなので、気になりません。
普段は歌詞を深く考えることはあまりありませんが、歌詞を文学作品として解釈するアイデアには興味があります。
そこで、ゆる言語学ラジオのあいみょん回を聴いて、藤井風の曲について考察してみることにしました。
理想を追求する様子
鳥は春を告げて
私は恋をして
素敵な温度だけ
触れさせて この肌で雲は夏を帯びて
私は目を閉じて
綺麗な時間だけ
追いかけて 尽きるまで
前提として、この楽曲では各行の最後の単語が全て「エ段」の音で統一されているようです。
これは一種の韻律技巧で、一文字だけの韻律ですので、難解なテクニックではないと思いますが、曲全体で「エ段」の韻律が一貫していることは、歌詞の特徴として注目されるべきです。
また、この方法により、後述のサビ部分に登場する「ガーデン」という言葉が、曲中でより際立つように工夫されています。
ただし、「ン」は韻律上では無視されるため、「ガーデン」も「エ段」の韻律に合致していると言えますが、「ン」の音が続くことで、これまでの「エ段」の韻律とははっきりと異なる印象を与え、聴衆に強い印象を残します。
この曲において、「ガーデン」には特別な意味が込められている可能性が高いでしょう。
AメロとBメロの歌詞の内容としては、季節を通じてその瞬間の感情が表現されています。
環境の描写を通じて、時間の流れを描写しつつも、内面的には「素晴らしい温かさだけを感じたい」「美しい瞬間だけを追求したい」という、幼稚で直感的な欲望が表現されています。
この欲望は時間が経っても変わらず、成熟していないことを示唆しています。
季節としては春と夏が選ばれており、「青春」として知られる人生の若く、活力に溢れた時期で、理想を追求する様子が描かれているのかもしれません。
今後、内面がどのように変化していくのかが注目されます。
生存への欲求
花は咲いては枯れ
あなたに心奪われ
それでも守り続けたくて
私のガーデン 果てるまで
人は出会い別れ
失くしてはまた手に入れ
それでも守り続けたくて
私のガーデン 果てるまで
この部分では、仏教的な哲学的要素を感じます。
最初に、「花は咲いては枯れ」の部分があります。
これは明らかに「諸行無常」を象徴しています。
そして、「(花は咲いて)は枯れ」と「(人は出会い)別れ」という部分があります。
これらの単語は、これまでの1文字の韻律とは異なり、3文字の韻律で表現されており、意図的な対比が生まれています。
同音異義語の要素も含まれており、ここでは「花」と「人」が意味的に結び付いて表現されています。
「花が咲いては枯れるように、人も生まれては死んでいく。出会いがあれば別れもあるし、美しい人もやがて老いていく。この世は虚しいものなのだ。」という主題が歌詞から伝わってきます。
このような理解から、人々はこの現実を受け入れ、虚無感に陥り、「別れたくないからそもそも出会わない」という思考に至るかもしれません。
しかし、歌詞では「それでも」人との出会いを望んでいます。
それは自分の「ガーデン」を維持するために必要だと歌詞で表現されています。
では、「ガーデン」とは何でしょうか。
先に触れたように、「ガーデン」の意味がこの曲の中で重要なテーマとして浮かび上がっています。
「ガーデン」は、日本語で「花を植えるための庭」という意味を持ちます。
そして、「花」はここでは「人」とも関連しており、この文脈では「ガーデン」とは「人と人の関係を育む土壌としての社会」を指す可能性が高いでしょう。
ただし、これは「私の」ガーデンであり、自分の人間関係を育む土壌、つまり「私の所属する社会」を表現していると考えられます。
人間は生存のために社会を構築し、協力と役割分担によって進化してきました。
例えば、今着ている服を作った人や食品を加工した人など、私たちは多くの人々の協力を得て生活しています。
社会から孤立し、孤島に取り残された場合でも、文明的な生活は維持できないでしょう。
したがって、この歌詞のサビでは、どんな出会いにも別れが付きまとうことを認識しつつも、自分は社会から孤立することなく、生存に必要な社会関係を維持し、悲しみと向き合いながら人々との出会いを追求していくことが、生存への欲求であると感じられます。
幸せな瞬間を追求したい
夜が秋を呼んで
私は旅に出て
素敵な出会いだけ
待っていて その日までだから冬よおいで
私を抱きしめて
その手の温もりで
生きさせて 溶けるまで
Aメロの「夜が秋を呼んで」という部分は非常に魅力的です。
通常、「秋の夜長」とか「中秋の名月」といった表現からは秋が夜を連想させますが、ここでは逆の関係が描かれています。
論理的にはA→BなのでB→Aにはならないというルールがありますが、人々は感情的で論理的でないことがよくあります。
実際、この逆の関係により、歌詞は特に印象的になり、違和感を抱かせることでしょう。
Bメロの「私を抱きしめ」る行為の主体はおそらく「冬」でしょう。
しかし、冬が私を抱きしめたという表現は、通常、寒冷な季節を想起させるものです。
この表現が通常と逆の関係にあることで、印象深さが増しているのかもしれません。
さらに、人々は寒さから温かさを感じることがあります。
寒い日に自動販売機で買った缶コーヒーを手に取ると、その温かさを感じますが、炎天下でホットコーヒーの缶を手にすると、熱さで触れないでしょう。
このように、寒い季節である冬が、人々にとって温かさや愛情を感じる季節として描かれています。
通常とは逆の関係を持ち出すことで、感情的な深さが生まれています。
また、この曲全体のテーマである人との出会いと別れについても、別れは悲しいことですが、それによって新たな出会いや幸せな瞬間が生まれることが示唆されています。
そして、「その日まで」というフレーズは、おそらく死を指していると解釈できます。
Bメロの最後でも「生きさせて」というフレーズは死を連想させる要素が含まれており、社会から孤立することなく、他の人々との出会いを通じて生存し、幸福を追求する希望が表現されています。
人々は孤立せず、他の人々とのつながりを求めます。
出会いには別れが付きものですが、それでも人々は幸せな瞬間を追求したいと願っています。
「悟り」に到達する過程を表現
季節に身を置いて
流れに身を任せ
なるようになるだけ
受け入れて そのままで
流した涙だけ
ふりまいた愛だけ
豊かになる庭で
掴んだ手 解き放て 空の果て
この部分では、明らかに仏教的な世界観が表現されています。
歌詞は絶えず変化する世界に身を置き、その変化を受け入れて生きることを讃えています。
仏教的な視点では、何かを期待することから苦しみが生じ、あるがままを受け入れることで苦しみから解放されるという考え方があります。
この歌詞は、そのような仏教的な思想を反映している可能性が高いです。
おそらく、藤井風は過去には開き直り、幸せな出会いを追求して生きてきたでしょう。
しかし、実際には幸せな出会いばかりではなく、終わりを意識して人間関係を続けることがむしろ苦しみを増やすことに気付いたのかもしれません。
そして、未来を意識することなく、ただ現実の「今」だけを受け入れることの重要性に目覚め、これまでの主張と180度異なる考え方を採用したのかもしれません。
仏教の思想において、全ての物事は因果関係に基づいて繋がっていると考えられています。
つまり、今起こっている出来事は過去の出来事に影響を受け、今起こっていることが将来の出来事を決定づけるのです。
この考え方に従えば、身の回りで起こる出来事は、自分の過去の行動に起因していると理解できます。
この理解が深まれば、現在の状況を受け入れることが容易になります。
また、歌詞中の「流した涙だけ ふりまいた愛だけ 豊かになる庭で」という部分は、藤井風の人間関係が出会いと別れを繰り返して形成され、それが豊かな社会を築いたことを示唆しています。
最後の歌詞「掴んだ手 解き放て 空の果て」では、「空」の思想が明確に現れています。
仏教の「空」とは、何もないが全てが含まれている存在の領域を指します。
物事は他の物事との関係性の中でのみ存在し、根本的には実在しないという考え方です。
藤井風がこのような「空」の概念に到達したことを示唆し、あらゆる期待を捨てて現実を受け入れることで煩悩から解放され、真の意味での解脱を追求していることが伝わります。
この歌はまさに「悟り」に到達する過程を表現したものでしょう。
多くの解釈が可能な歌詞
途中から軽く冗談を交えてしまいましたが、藤井風の歌詞は個人的な解釈に過ぎないことを強調します。
したがって、真に受けないでください。
実際の歌詞の内容を考えると、サビにおける主張が中心であり、Cメロの解釈は変更される余地がないと仮定します。
要するに、この歌は幸せな生活を追求し、人との出会いを大切にし、それが心に喜びや悲しみをもたらす要因であることを伝えています。
ガーデンはこの文脈では単純に「心」を象徴していると考えられます。
出会いと別れが心を豊かにする要素であり、この歌はそのようなメッセージを伝えていると解釈されます。
また、藤井風の歌詞にはサイババと呼ばれる思想の影響がある可能性もあるかもしれませんが、詳細については分かりません。
最終的に、このように多くの解釈が可能な歌詞を書ける藤井風の才能に敬意を表し、冗談が多かったことをお許しいただきたいです。
彼の歌詞は確かに多くの人々に感銘を与えています。