【どこもかしこも駐車場/森山直太朗】歌詞の意味を考察、解釈する。

別れ話と「悲しくない」心情の裏側

どこもかしこも駐車場」の冒頭で語り手は、別れ話の直後にもかかわらず「悲しくなんてなかった」と語ります。
しかし、この言葉にはすぐに感情を受け入れられない人間の心理が映し出されています。
失恋という衝撃的な出来事に対して、感情の表出が遅れることは珍しいことではありません。
語り手は、自分が「振られた側」でありながらも、涙を流したのは「彼女」の方であったことを淡々と述べています。
ここには、彼の心の中で感情がまだ処理されていないことが示唆されています。

この「悲しくない」という強がりの背後には、本当は悲しみに直面する準備ができていない、もしくはそれを避けたいという無意識の防御反応が垣間見えます。
悲しみが遅れて襲ってくることを恐れるかのように、彼は現実から目をそらし、日常の中で見かける「駐車場」などの無機質な風景に思考を集中させようとします。
悲しみを直視する代わりに、目に映るものすべてを心の中で言葉にしていくことで、感情の波が押し寄せてくるのを防ごうとしているのです。

このように、歌詞の中で「悲しくない」と語る心情は、実際には深い悲しみを抑圧し、表に出さないための心理的なバリアとして機能しています。
彼は現実と向き合うのではなく、無意味な言葉や現実に存在する無関係な物事で心を埋め尽くそうとし、まだ訪れていない感情を避け続けているのです。

「どこもかしこも駐車場」の意味するものとは?

どこもかしこも駐車場」というフレーズは、この楽曲の中で何度も繰り返されますが、その背後には単なる景色の描写以上の意味が込められているように感じられます。
駐車場は、無機質で空虚な場所であり、何も動きがない静かな空間です。
歌詞中で語り手がこの「駐車場」を繰り返すたびに、その無機質さが感情の行き場を失った彼自身の心情と重ね合わされているように思えます。

駐車場とは本来、車を一時的に停めるための場所です。
しかし、ここではその一時性や無機質さが、語り手の心の状態を象徴しているようです。
彼は失恋によって深い感情の揺れを感じているはずなのに、それをうまく表現できず、感情の流れが滞った状態にあります。
そのため、彼の心はどこか停滞した、動きのない駐車場のように感じられるのです。

また、「駐車場」という言葉がこれほどまでに繰り返されること自体が、彼の心が同じ場所にとどまり続けていることを象徴しています。
失恋の悲しみから逃れようとして、無意味なものに目を向け、現実を無視しようとしているのですが、どこを見ても「駐車場」が目に入り、そこから逃れることができないのです。
これは、彼が感情を避けようとしても、結局はその虚しさにとらわれてしまうことを示しているのかもしれません。

さらに、「どこもかしこも駐車場」という表現には、現代社会への皮肉も含まれている可能性があります。
都市化が進む中で、どこを見ても駐車場が広がっているという事実は、無機質で合理的な世界が広がっていく一方で、人間らしい感情やつながりが薄れていく現代の姿を反映しているとも考えられます。
つまり、駐車場は語り手の内面だけでなく、社会全体の空虚さをも象徴しているのです。

駐車場に象徴される現実と心の空虚さ

どこもかしこも駐車場」というフレーズが繰り返される中で、駐車場は単なる物理的な場所以上に、現実世界と語り手の心情の象徴として機能しています。
駐車場は無機質で、何も動かず、目的を持つ者が一時的に停車するための空間です。
語り手の心は、まるでこの駐車場のように感情が停滞し、何も前に進まない状態にあります。
失恋の衝撃を受け、彼は現実と向き合うことを避け、その場に留まり続けているのです。

この駐車場というモチーフは、語り手の心が抱える空虚さを象徴しています。
彼は日常生活を送りながらも、その内側は深い孤独と虚無感に覆われています。
目に映るものはすべて「駐車場」として映り、感情を無視しようとしても、その空虚な現実が彼の心に影を落としていることを示しています。
彼がどれほど感情から逃れようとしても、無意味に広がる「駐車場」は彼の意識を支配し、その虚しさから抜け出せないことを暗示しています。

また、この「駐車場」が語られる背景には、現代社会の無機質な側面があるとも言えます。
どこを見ても広がる駐車場は、都市の無機質さや人間関係の希薄さを象徴し、人々が感情を抱えることなく機械的に生きている現実を映し出しているのです。
語り手にとって、駐車場はただの場所ではなく、彼が直面している現実の冷たさ、そして彼自身が感じている心の空虚さを象徴するものとして存在しています。

このように、駐車場は語り手の心情と現実世界の空虚さを重ね合わせる重要なモチーフであり、その無機質な広がりが彼の感情の停滞を示すと同時に、彼が抱える孤独感を強調しています。

火星に帰りたいという言葉の象徴性

どこもかしこも駐車場」の歌詞の終盤で、語り手は「そろそろ火星に帰りたい」と歌います。
このフレーズは、一見すると奇抜で非現実的な発言のように感じられますが、実際には深い象徴性を持っています。
火星というのは、私たちの日常生活とは全くかけ離れた、遠く離れた異世界の象徴であり、語り手が現実から逃避したいという強い願望を反映しているのです。

失恋の痛みや孤独感に直面し、現実世界では心の安らぎを見出せない語り手にとって、火星は非現実的な「逃げ場」として登場します。
彼は、日常の喧騒や感情の重荷から解放され、まったく異なる世界に身を置くことを願っています。
現実から遠ざかり、心の負担が軽くなる場所を象徴するのが、この「火星」という言葉なのです。

また、「火星に帰りたい」というフレーズは、語り手が現実にいるべき場所から切り離された、孤立した存在であることを示しています。
現実世界では居場所を失い、孤独に苛まれている語り手は、自分の感情や存在に違和感を感じ、まるで自分が地球人ではなく、火星人であるかのように感じているのです。
この違和感と孤独感が、彼を「火星」という現実逃避の象徴へと駆り立てます。

火星は、現実世界の冷たさや無機質さに対するアンチテーゼであり、語り手の心の中で理想的な逃避先として機能しているのです。
しかし、同時にその願望は非現実的であり、語り手が現実から完全に逃げ切ることはできないという無力感も暗示しています。
彼は火星に「帰る」ことができないことを理解しつつも、その願望を口に出すことで、一時的に現実の痛みから逃れようとしているのです。

このように、「火星に帰りたい」というフレーズは、現実逃避と孤立感を象徴するものであり、失恋によって心の安らぎを失った語り手の苦悩と、現実との間にある隔たりを強く示しています。

100年後の未来と孤独感の関係

どこもかしこも駐車場」の歌詞の中で、語り手は「百年経ったら世界中 たぶんほとんど駐車場」と未来をぼんやりと想像します。
このフレーズには、無機質で無感情な世界への皮肉が込められているように感じられます。
未来に向けたこの視線は、現実の延長にあるはずの未来が、今と同じように空虚で、どこにも救いや変化がない世界であることを暗示しています。
駐車場が広がる無機質な未来は、語り手の心の中の孤独感とリンクしており、彼の未来に対する希望の欠如を表しています。

また、「百年後」という遥か先の未来を語ることで、語り手が現実からどれだけ遠ざかっているかが強調されています。
彼は失恋の痛みによって、現在に居場所を見いだせず、感情の整理がつかない状態にいます。
そんな彼が、日常から目を逸らし、現実から逃れようとして未来を想像するのは、今の孤独感や虚無感を少しでも薄めたいという心理の表れです。
しかし、想像された未来が「駐車場だらけ」であることは、彼の心がまだ未来に希望を持てないことを示しています。

百年後の未来」という言葉は、語り手が自分の人生や今後の展望に関して抱いている虚しさを反映しています。
彼は、未来においても結局は無意味な現実が続くだけで、彼自身が抱えている孤独や感情の空虚さが埋められることはないと感じているのです。
この「駐車場だらけの世界」は、彼が現在感じている孤独感と切り離すことができない存在であり、どれほど未来に希望を託そうとしても、その根本的な孤独感は変わらないことを暗示しているのです。

こうした未来への皮肉な見通しは、語り手が心の奥底で感じている孤独感が、時間を経ても解消されないであろうという絶望感を映し出しています。
彼にとって、「駐車場」という無機質な象徴は、未来においても自分を取り巻く現実の変わらなさ、そして感情を持たない世界との向き合い方を表現しているのです。