【春泥棒/ヨルシカ】歌詞の意味を考察、解釈する。

こんにちは。
今回は、ヨルシカのEP「創作」の中から、「春泥棒」の歌詞について深く考察してみました。

「春泥棒」の考察、解釈

この曲は、命を象徴するたとえとして桜を用いています。
歌詞の中には桜という単語は登場しませんが、音楽ビデオでは桜の映像が際立っています。
おそらく、歌詞では桜の言葉を避けているのは、曲が「命」に焦点を当てているためかもしれません。


n-bunaによると、この曲では花が寿命、風が時間を象徴しているという趣旨のコメントが、ツイッター上で行われました。
興味深いことに、このツイートは前回のEP「盗作」の主人公の視点から述べられたものであると、その表現や口調から察されます。


高架橋を抜けたら雲の隙間に青が覗いた
最近どうも暑いからただ風が吹くのを待ってた

最初は、小説などでよく見られるような、空の比喩が用いられています。
高架橋と雲は、青い空をさえぎる妨げの象徴であり、苦難を乗り越えれば少しは良いこと(青)が訪れるという意味合いです。
しかし、依然として調子が悪く(暑い)、やる気もエネルギーも湧かず、風=時間がただ過ぎ去るのを待つばかりでした。

木陰に座る 何か頬に付く 見上げれば頭上に咲いて散る

気付いた時には、妻は死に向かっていく途中でした。


はらり、僕らもう息も忘れて 瞬きさえ億劫
さぁ、今日さえ明日過去に変わる ただ風を待つ
だから僕らもう声も忘れて さよならさえ億劫
ただ花が降るだけ晴れり 今、春吹雪

息をすることも忘れ、まばたきもせず、二人は互いを見つめ合い、ただ時間が経過していきます。
会話もなく、別れの言葉すらないまま。
ただただ時間が流れ、妻は死に向かっていく瞬間を二人は共有します。
ちなみに、歌詞中では瞬きを「またたき」と表現しており、それは一瞬さえも惜しいという感情を表しているようです。
曲調は非常に明るく、春にぴったりなのに、歌詞を深読みするとネガティブな要素が浮かび上がります。
ネガティブというより、抵抗できない受け入れのような感じもあります。
意味を理解すると、この歌詞は切ないと感じることでしょう。
怖いというよりは、心に迫るものがあると言えるでしょう。


「晴れり」の「り」は、古文で用いられて「晴れている」という意味を持つ表現です。
「春吹雪」は、春に降る吹雪のことを指します。
したがって、「晴れているのに春吹雪が吹いている」という状況が描かれています。
「花吹雪」という表現があれば、より美しい情景を描けるでしょうが、敢えて「春吹雪」という表現を選んでいることから、この言葉が重要であると言えます。
また、最近の暑さと桜の散り始め、さらには晴れているにもかかわらず春吹雪が吹いているという矛盾は、おそらく「春吹雪」が隠喩であることを示唆しています。
晴れた日に、ネガティブなイメージを持たせる春の吹雪は、無意識のうちに命の終焉が迫っていることを象徴しているのかもしれません。


次の日も待ち合わせ 花見の客も少なくなった
春の匂いはもう止む 今年も夏が来るのか
高架橋を抜けたら道の先に君が覗いた
残りはどれだけかな どれだけ春に会えるだろう

今日も夫は訪ねてくれるようです。
だんだんと見舞いに来る人も減ってきました。
自分の終末が迫っていることを実感しています。
病気の苦痛が和らいだ後に、夫が見舞いに来てくれました。
いつまでこの世にとどまれるのか、考え込むことがあります。
結婚している上に、既に死が迫っている妻が花見の約束をするのは違和感があります。
したがって、これも比喩的な表現と捉えられます。
花=命を訪ねにくる人が減ってきたことを示しているのかもしれません。
ここで言及される「花見」は、以前の文脈からすると「お見舞い」のことを指している可能性があります。
そして、以前言及された「高架橋」は「病気」を指しているのかもしれません。


川沿いの丘、木陰に座る
また昨日と変わらず今日も咲く

今日も、妻のところへ見舞いに行きました。
そこには、今もなお生き続ける妻の姿がありました。
「高架橋」が病気を象徴し、「花見」がお見舞いを指すと仮定すると、歌詞に登場する「木陰」という言葉は、病院の椅子を示しているかもしれません。
これまでの解釈を適用すると、入院中の妻を訪ねる夫の情景がうまく説明できます。
要するに、「春泥棒」の背景は病院であるということです。
歌詞のこの部分は、「また昨日と同じように今日も花が咲き、そして私たちは息を忘れ、瞬きすらも面倒だと感じる」という文脈と一体化しています。


歌詞の進行に従って、1つのコーラスごとに妻、夫、そして「僕ら」という視点が交互に切り替わり、双方の感情が表現されていると解釈できます。


花に、 僕らもう息も忘れて 瞬きさえ億劫
花散らせ今吹くこの嵐は まさに春泥棒
風に今日ももう時が流れて 立つことさえ億劫
花の隙間に空、散れり まだ、春吹雪

息をすることも忘れ、まばたきもしないで互いを見つめ続けます。
花(命)が風(時間)に散り散りと舞い、これこそがまさに「春泥棒」でしょう。
時は刻一刻と過ぎ去りますが、旅立ち(死)を受け入れることができずにいます。
命は次第に消えつつありますが、まだ生きているのです。
「花の隙間に空」というフレーズは、花が散り乱れていることを示唆しているでしょう。
もちろん、満開の時でも隙間から空が見えることはありますが、その点はさておきますね。
したがって、「空」という言葉は、おそらく天国を象徴しており、天国へ近づきつつあることを表しているかもしれません。


「立つ」の言葉は、そのまま「立ち上がる」という意味か、病気のために立ち上がれないとしても、この二人の感情を表現するサビの部分には適していないと感じられます。
そして、1番の歌詞と照らし合わせると、「立つ」は死別を思わせる「旅立つ」として、「死」を指していると解釈できるかもしれません。
この場合、それは比喩として用いられています。


「春吹雪」というフレーズについて、前述のように命の終わりが迫っていることを示していますが、この部分には2つの異なる解釈が考えられます。
1つは、「死に近づいているけれども、まだ生きていることを意味しており、ポジティブな解釈」というものです。
もう1つは、「死に近づいている状態なのに、状況が改善されずにいるというネガティブな解釈」というものです。
迷った場合、ポジティブな解釈を採用するのが良いでしょう。


今日も会いに行く
木陰に座る
溜息を吐く
花ももう終わる
明日も会いに行く
春がもう終わる
名残るように時間が散っていく

今日も、妻の元へ向かいます。
深いため息をつきながら、椅子に座ります。
明日も、妻に会いに行くことを心に決めます。
迫る別れを惜しむように、時間は静かに流れていきます。
この部分は、メロディの視点から言えば夫の立場を表現しています。
そして、木陰に座るのも夫の行為として捉えられますね。


愛を歌えば言葉足らず 踏む韻さえ億劫
花開いた今を言葉如きが語れるものか

愛を音楽に詠みたくても、言葉が足りず、韻を踏むことも難しいほどです。
幸せな人生を言葉だけでは十分に表現できないことを理解しています。
これほど愛し合っているので、これまでの人生が素晴らしいものであったことを認識しています。
実に素晴らしい歌詞ですね。
この部分が特に注目されます。
「盗作」の夫である男性が作曲家であることを考えると、この歌詞は作曲家らしい視点からも捉えられます。
しかし、サビにおいて夫の視点の歌詞が現れており、したがって、この歌詞は二人の想いを共有したものであると解釈できるでしょう。
このように考えることが、感情に共感する一因となります。

はらり、僕らもう声も忘れて 瞬きさえ億劫
花見は僕らだけ 散るなまだ、春吹雪

言葉を交わすことなく、この瞬間の過ぎ去りが惜しいと感じます。
散りゆく命を見つめているのは、私たちだけです。
どうか、この瞬間が永遠に続くように願います。

あともう少しだけ もう数えられるだけ
あと花二つだけ
もう花一つだけ
ただ葉が残るだけ、はらり 今、春仕舞い

ここは、意訳すると整合性が損なわれてしまうため、このままの表現が最も適しています。
この部分は、特定の視点ではなく、命が次第に散っていく情景を描写しています。
言い換えれば、第三者の視点から物語が語られています。
歌詞には時間の制約を感じさせる要素があり、これが別れを惜しむ二人の姿を見事に表現していると思われます。


「春泥棒」の歌詞を考察する中で、最後に登場する「ただ葉が残るだけ」という表現が、最も謎めいています。
「もう花一つだけ、はらり 今、春仕舞い」というフレーズで物語が完結していたところに、なぜ「葉」を残すことを選んだのか、という点です。
まず、前述の通り、この歌詞パートは情景描写であり、夫または妻が口にした言葉ではないと考えられます。
したがって、「ただ葉が残るだけだよ」といった慰めの言葉ではないと解釈できます。
さらに、「ただ~だけ」という言い回しから、単にそこに存在する事実を示す意味で使われている可能性があります。
花が寿命を表す隠喩であったことを考えると、この「葉」もまた隠喩であると考えられます。
最初に思い浮かぶのは、葉=体であるかもしれませんが、それだと他の要素と合致しづらいです。
したがって、精神的な要素を指している可能性が高いと考えられます。
この歌詞パートは、誰か特定の視点ではなく、命が次第に散っていく情景を描写しており、第三者の視点から物語が語られていることにも注目すべきです。
この第三者とは、「春泥棒」を作詞したn-buna、つまり「盗作」の男である可能性が高く、したがって、この「葉」とは二人の愛情や思い出を指しているのかもしれません。
愛情が歌に込められたり、言葉では言い尽くせない幸せがあったり、春の記憶が残るように、「ただ残っているだけ」という表現が用いられているのかもしれません。

まとめると、

苦難を乗り越えたとき、少し良いこと(青)があった。
しかし、相変わらず調子が悪く(暑い)て、やる気も気力もなく、風=時間が過ぎ去るのをただただ待っていました。
気づいたときには、妻は死に向かっていました。
息をすることも忘れ、まばたきもせず、ふたりはただ時間が過ぎ去るのを見つめ合うだけでした。
話すこともせず、さよならを言うことすらありません。
ただ、時は流れ、妻は死に向かっています。
今日も夫は見舞いに来てくれるようです。
時間が経つにつれて、見舞いの来客も減っていきました。
自分の死がすぐそこに迫っていることを感じます。
病気の苦しみが少し和らいだところで、夫がお見舞いに来てくれました。
自分はいつまで生きられるのか考えます。
今日も妻の見舞いに行きます。
そこには、今日も生きている妻の姿がありました。
息をすることも忘れ、まばたきもせず、ふたりはただ見つめ合います。
花(命)が散るように風(時間)が過ぎ去るこの瞬間は、まさに「春泥棒」と呼ぶべきものです。
時間は刻一刻と過ぎ去りますが、旅立ち(死)を受け入れることはできません。
命が散っていく一方で、まだ生き続けています。
今日も妻に会いに行きます。
深いため息をつきながら座ります。
明日も会いに行くと誓います。
別れが近づくのを惜しむように、時間は流れていきます。
愛を歌にしようとすれば、言葉が足りず、韻を踏むこともできないほどになります。
幸せな人生を言葉だけで語りきることもできません。
話すこともせず、この一瞬の過ぎ去りが惜しいと感じます。
散りゆく命を見つめているのは私たちだけです。
どうかこの瞬間が永遠に続きますように。
あともう少しだけ、もう数えられるだけ
あと花二つだけ
もう花一つだけ
ただ葉が残るだけ、はらり 今、春仕舞います。