2000年にリリースされたくるりのシングル「ワンダーフォーゲル」は、エレクトロニックな要素も取り入れた明るいサウンドが特徴的な楽曲です。
歌詞は感情豊かで切ないメッセージを伝えており、この曲はくるりのライブで頻繁に演奏される名曲の一つです。
今回、この素晴らしい楽曲を深堀りしてみましょう。
成長に伴う痛みや喪失感
くるりの通算6作目のシングル「ワンダーフォーゲル」は2000年10月18日にリリースされました。
この楽曲は、打ち込みを取り入れたサウンドで、明るく華やかな印象を与えます。
同時に、歌詞の内容は感動的で切ないメッセージを伝え、多くのリスナーの心を捉えました。
この曲は、ボブ・ディランが「どれだけ歩けば一人前の男と呼ばれるのか」と歌ったのと同様に、成熟に向かう過程での葛藤や別れについても歌っています。
岸田繁は、大人になる過程で恋人や友人との距離が広がる様子を描写し、教育環境での交流から離れていく過程を語っています。
成長するにつれ、親しい友人たちとの関係が遠ざかり、これまでの絆が薄れていく様子が描かれています。
「ワンダーフォーゲル」は、日常の中で友人や恋人との繋がりが薄れ、成長に伴う痛みや喪失感を感じる人々に共感を呼び起こします。
この曲は、自身の成長とともに過去のつながりを思い出し、かつての友情や愛情を懐かしく思う気持ちを表現しています。
くるりは時代とともにサウンドを変化させ、バンド自体も成長し続けています。
この曲は、その成長の過程を予知的に描いており、ライブで親しまれている名曲「ワンダーフォーゲル」の歌詞を解析してみましょう。
それでは、実際の歌詞を詳しくご紹介しましょう。
漠然とした違和感や複雑さ
僕が何千マイルも歩いたら
手のひらから大事なものがこぼれ落ちた
思いでのうた口ずさむ
つながらない想いを 土に返した
土に返した
この歌の冒頭に現れる歌詞は、語り手である僕と君への憧れがテーマとなっています。
歌詞の全体は僕自身の内面的な対話として展開されており、僕らという一人称複数の言葉が頻繁に用いられています。
これらの歌詞を通じて、地道な歩みを通して見つかるものや、切なさについて語られています。
岸田繁は「ワンダーフォーゲル」という言葉に二重の意味を込めています。
この言葉は本来、渡り鳥を指すものです。
しかし、大学生活などで「ワンダーフォーゲル部」というサークルに触れた人もいるでしょう。
このサークルは戦前のドイツで起源を持つ野外活動を楽しむもので、「ワンダーフォーゲル」という名前が付けられました。
岸田繁は、「ワンダーフォーゲル」という言葉を用いて、まずひたすらに歩くこと、都会ではなく山道のような場所を歩く姿を描写しています。
彼はアスファルトではなく、土の上を歩みながら、自然との調和を感じることを強調しています。
歌詞の中で、僕は山道を長い間歩んできたと歌われています。
この表現は、人生の旅路を象徴しており、長い年月を経てきたことを示しています。
歌詞では、手のひらから何かが滑り落ちるという描写が登場します。
これは山道が険しいために何か大切なものを失ったという比喩ですが、具体的な失ったものは言及されていません。
しかし、歌詞を進めると、その失ったものが何かが少しずつ明らかになってきます。
この歌詞は、生きる過程で大切なものを見失いつつも、進むべき道や必要な知識を見つけていく成長のプロセスを描写しています。
進路や志向に合わないものは捨てることがあり、これは学問だけでなく、人間関係にも言えることです。
全ての知識や経験は大切ではありますが、限られた時間やリソースの中で、自分のキャパシティに収まるものを選ばざるを得ないことがあると示唆されています。
岸田繁はこの状況を肯定も否定もせず、むしろ漠然とした違和感や複雑さを表現しています。
ゴールがどこにあるのか分からない
今なんで曖昧な返事を返したの
何故君はいつでも そんなに輝いてるの
翼が生えた こんなにも
悩ましい僕らも 歩き続ける
歩き続ける
君は物語に初めて登場します。
僕とは対照的に、君は地を這うのではなく、翼を背負い、渡り鳥のように高い空で舞います。
この対比から、君と僕は異なる世界に住んでいることが示唆されます。
君は空中を飛び、人類の長年の夢であった鳥のような自由な飛行を実現しています。
航空の歴史はライト兄弟の決死の飛行から始まり、その後急速に進歩してきました。
しかし、ここで述べているのは、単に地上と空中の話ではなく、君の驚異的な能力や存在感に焦点を当てています。
君はまるで何でもできるかのような、まばゆい存在として描写されています。
君は凡人とは異なり、偉大な存在のように見え、身近にいるスーパースターのような存在であると表現されています。
僕は自分が不器用で地道に日々を過ごす一方で、君は多くのことを難なくこなしてしまうことに憧れを抱いています。
性別や年齢、容姿については言及されず、君の存在は岸田繁自身が憧れるような輝く存在として描かれています。
君は僕に対して、もやもやとした答えしか示してくれません。
君は超然としており、別次元のような世界に生きる存在と言われます。
僕は君に対する憧れを抱いていますが、同時に自分にはできることは、今まで通り地道に歩んでいくことだと信じています。
君のスタイルを模倣して空を飛ぼうとは思わず、ただ地上から君が空中で輝いているのを見つめ、その輝きに感銘を受けます。
君のように生きることができれば素晴らしいと思う気持ちは抱きつつも、自分自身の個性や哲学があり、人生の核心部分は他者と交換できないものだと確信しています。
僕は地平を歩む存在であり、高い目標を持ち、自分のスタイルを貫いて生きています。
野道を進む中で、ゴールがどこにあるのか分からないかもしれませんが、僕自身のスタイルに固執し、それを尊重しています。
このような変化は大人になる過程で覚悟しなければならない
つまらない日々を 小さな躰に
すりつけても 減りはしない
少し淋しくなるだけハローもグッバイも
サンキューも言わなくなって
こんなにもすれ違って
それぞれ歩いてゆく
僕は地味な日常を地道に過ごす人間です。
日々の生活は華やかさに欠け、単調でつまらないとさえ感じることがあります。
それでも、僕はそのような生活を選んだ自分に対して、ある種の頑固さを感じています。
この地道な生活が続いても、何も文句を言わずに受け入れることができるのです。
私たちは似たようなことの繰り返しの日々を過ごしています。
時折、この生活がいつまで続くのかを考え、出口を探そうとすることもあります。
しかし、出口までの距離を数えたりしても、現実の生活は変わらず、新たな課題が待ち受けていることもあります。
一喜一憂しても、現実は変わりません。
ただ、何か良いことが訪れることを願う日々が、時には寂しさを伴うこともあります。
歌詞の中の僕も、この切なさを感じながら生きているのです。
地上の生活は、空を飛ぶ鳥のように自由ではありません。
しかし、それを受け入れることを心から理解しています。
サビの歌詞が続きます。
ファンにとっては馴染み深いフレーズでしょう。
このサビが「ワンダーフォーゲル」の楽曲に込められた切なさを感じさせます。
歌詞には野道をそれぞれのペースで歩む人々が登場し、その中に歌詞の中の僕や岸田繁の姿が投影されています。
さらに、じっくり見つめれば私たち自身の姿も見つけることができるはずです。
私たちは成長の過程で、自分の道を歩む中で他者との繋がりを失っていくことがあります。
例えば、小学校ではクラスメイトたちと毎日顔を合わせ、楽しく時間を過ごしました。
しかし、成長するとそれぞれ異なる進路を選び、新しい季節へと向かうことになります。
新しい学校や職場で新たな友人や同僚を得ることはありますが、無条件に信頼できる人は次第に減っていきます。
多くの人が家庭を築き、家族を大切にしようとする一方で、狭い友人のサークルを維持しようともがきます。
そのため、コミュニケーションの性質や範囲が変わってきます。
かつて一緒に過ごしたクラスメイトの姿が次第に視界から消え、交友関係が縮小し、言葉を交わす機会も減少していきます。
簡単な挨拶ですら難しくなり、それは非常に切ないことです。
しかし、このような変化は大人になる過程で覚悟しなければならないものなのです。
幅広い意味でのラブソング
強い向かい風吹く
僕が何千マイルも歩いたら
どうしようもない 僕のこと認めるのかい
愛し合おう誰よりも
水たまりは希望を 写している
写している
厳しい日常が僕を疲れさせます。
僕はボブ・ディランの「風に吹かれて」の歌詞に触発され、一体どれだけ歩けば自己認識が変わり、一人前と言えるのかという問いにこだわります。
まだ一人前とは認められていないという自覚があり、誰がその認証をしてくれるのかを常に考えます。
特に君の視点から見れば、僕はまだまだ未熟な存在だと思い込みます。
確かに、地を歩む者と空を飛ぶ者は生活の領域が異なります。
地を歩む者は地道さを重んじ、その中で価値を見出します。
一方、空を舞う者はまばゆい輝きと華やかさが魅力で、憧れの対象とされます。
もしいつか自分が一人前と認められる日が来たなら、その時には愛を分かち合いたいと望むのです。
異なる存在同士が交わる瞬間に、新たな経験や交流を求めるのです。
「水たまり」という言葉は極めて重要です。
その理由は、水面に映し出される景色において、地を這う僕と空を翔ける君が同時に存在するからです。
水面は、地上と空中の存在を平等に反映させるフラットな鏡のようなものです。
そのため、地上を歩む僕と、空を飛ぶ君とが水たまりの上に立つことで、互いに対等な立場に立つことができるのです。
この場所に、僕が望む未来の姿があると信じています。
希望に満ちた歌詞を歌うことは、これにふさわしいことなのです。
この水たまりは、生活圏が異なる存在同士が交わる可能性を象徴しています。
岸田繁の詩的な才能と哲学的な洞察力から、異なる存在同士の交流がどれほど深いものであるかがうかがえます。
また、岸田繁にとって最も尊いものは愛であり、冒頭で手からこぼれ落ちた大切なものの正体が愛であることが示唆されています。
失った愛を取り戻す強い願いが歌詞から伝わってきます。
君に認められ、一人前の人間として愛を交わす日が来ることを願って、僕は自分の道を歩み続けます。
「ワンダーフォーゲル」は、その愛の歌として、幅広い意味でのラブソングと言えるでしょう。
人生のテーマソング
矢のように月日は過ぎて 僕が息絶えた時
渡り鳥のように 何くわぬ顔で
飛び続けるのかいハローもグッバイも
サンキューも言わなくなって
こんなにもすれ違って
それぞれ歩いてゆく
クライマックスの歌詞が続きます。
将来の見通しは楽観的ではありません。
僕は自分が死後の出来事を思考します。
君は相変わらず空を舞う存在であり、地上に埋まる僕を気に留めていないかもしれないと思うのです。
地を這う者として、ひと言くらい君に不平を口にしました。
君にはあの水たまりに映るふたりの光景が見えなかったのでしょうか。
分かりあえず、挨拶も交わせないままにふたりの人生は終わる可能性がある。
こうした絶望的な未来を想像します。
同じ地を這う者同士でさえ、いつの間にか挨拶もできなくなる関係に変わってしまうのです。
大都市では、生活圏が同じ者同士でも挨拶しないことが現実です。
疑わしい者と見なされないように気を付けなければならず、結果的に挨拶をしなくなります。
地域差や生活環境の違いがあるかもしれませんが、この傾向はますます強まっています。
そのため、市民同士の交流が減少し、愛が失われたような気がします。
しかし、私たちはこの現実を受け入れざるを得ません。
楽曲「ワンダーフォーゲル」をまとめると、成長するにつれて、他人に対する興味を失っていくことが示されています。
幼い頃は何でも興味津々で、人間関係に瞳を輝かせていましたが、少しずつ関心が薄れていきます。
それでも、憧れの人に認められ、一人前の人間としての未来を願って、私たちは自分の道を進み続けます。
しかし、その道の中で大切な愛を失うことを感じながらも、目の前の野道を歩むしかないのです。
この歌の中の孤独感は非常に強烈ですが、力強いサウンドと歌声によって表現されています。
ライブでは、この孤独感を共有することで、くるりはリスナーとの絆を深めています。
抱えきれない寂しさを共有できることは、芸術の力強さの一つでしょう。
絶望に負けずに前進する覚悟が、くるりを支えてきたのです。
メンバーの変動もあったかもしれませんが、今日までくるりは現役で大きな成功を収めています。
この「ワンダーフォーゲル」をテーマソングと捉える人も多いでしょう。
寂しさに打ち勝つ力がこの不思議な曲に宿っています。
ぜひ何度もリピートして、人生のテーマソングにしてみてください。