【斜陽/ヨルシカ】歌詞の意味を考察、解釈する。

ヨルシカの楽曲『斜陽』の歌詞の意味解釈について知りたい方も多いかと思います。
この曲は、主人公が自己肯定感を取り戻していく過程が描かれているとされています。
以下では、『斜陽』に込められた意味やモチーフについて考察してみましょう。

自己肯定感を取り戻す過程

頬色に茜さす日は柔らかに
爆ぜた斜陽に僕らは目も開かぬまま

悲しくってしようがないんだ
お日様で手が濡れた
眩しくって仕方がないし
途方に暮れた帰り、

落ちて行くように茜が差したから

歌詞には「悲しくってしようがないんだ」とか「途方に暮れた帰り」といったネガティブなフレーズが含まれていますが、これらはタイトルの「斜陽」の意味と結びつけて考えることができます。
このようなフレーズが、暗い方向へ進んでいく心情や状況を表現しているのかもしれません。


もう少しで
僕は僕を一つは愛せたのに
斜陽に気付けば目も開かぬまま
静かな夕凪の中

「僕は僕を一つは愛せたのに」という歌詞が、自己評価の不足を切々と伝えており、心を重くさせますね。
そして「斜陽に気付けば目も開かぬまま」というフレーズは、夕日の輝きにもかかわらず目を開くことができない様子を描き、自分自身と向き合うことが難しいという感情と結びついています。
この部分は、自己評価に対する不安や葛藤を表しているように感じられますね。


悲しくってしようがないんだ
お日様に手が触れた
とろとろと燃えるみたいに
指先ばかり焦げた

「とろとろと燃えるみたいに」と「指先ばかり焦げた」の歌詞部分には、主人公が恋に向き合っている様子が描かれていると捉えられます。
この視点から見ると、「お日様」が恋を象徴し、主人公が「お日さま」によって内部で燃え盛る感情を抱えていると解釈できます。


高く成った葡萄みたいだ
届かないからやめて
僕は恋をしたんだろうか
あのお日様のように、
落ちていくのに理由もないのならもう

「高く成った葡萄」の表現に込められた意味について、個人的な解釈を共有いたします。
これによると、このフレーズは恋の成果や理想的な自己像を象徴している可能性があります。
この解釈は、「届かないからやめて」という歌詞に裏付けられています。
この部分からは、望むものや理想が手に入らないかもしれないという不安や諦めを示しているように思えます。
このような視点から考えると、「高く成った葡萄」が恋愛の達成や理想への追求を象徴しており、その実現性が不確かな状況を「届かないからやめて」という言葉で表現していると言えるかもしれません。


頬色に茜さす日は柔らかに
爆ぜた斜陽も僕らの道をただ照らすのなら

もう少しで僕は僕を一つは愛せるのに
斜陽にはにかむ貴方が見えた
静かな夕凪の中
僕らは目も開かぬまま

「僕は僕を一つは愛せるのに」というフレーズは、1番の歌詞「僕は僕を一つは愛せたのに」と対を成す表現として用いられています。
最初のサビでは、斜陽の輝きが眩しくて、あなたを見ることができずに逃げていた過去が描かれています。
しかしあなたとの出会いによって、少しずつ自己肯定感を取り戻していき、最後の部分では「もう少しで愛せるのに」「はにかむ貴方が見えた」と歌われています。
これにより、主人公が自分自身を受け入れる過程や成長が表現されていると考えられます。
このような展開から、「斜陽」は主人公が自己肯定感を取り戻す過程を描いた歌である可能性が示唆されています。

モチーフとなっている作品

この楽曲には、以下の2つの文学作品がモチーフとして組み込まれていると言われています。

  1. 太宰治の小説「斜陽」
  2. イソップ寓話「酢っぱい葡萄」

「斜陽」は、没落していく様子を、一方で「酢っぱい葡萄」は自己肯定感の低さを描いた要素を持っています。
そして、ヨルシカの楽曲「斜陽」では、これらの作品の要素を巧みに取り入れて表現されていることが分かります。

まとめ

記事を通して、ヨルシカの「斜陽」の歌詞に込められた意味に迫ってきました。
その結論として、主人公が自己肯定感を回復していく過程が歌われていると考えます。
さらなる深層への探求によって、新たな視点や洞察が浮かび上がる可能性もあります。