なぜこの曲は心に深く響くのでしょうか…。
「ボクノート」は2006年に発表され、映画「ドラえもん のび太の恐竜2006」の主題歌でもありました。
この曲のタイトルは、「僕の音」というフレーズと同じ響きを持つようになっています。
その響きは、まるでドラえもんの秘密の道具のようでもあります。
ミュージックビデオでは、多くの人々の笑顔が映し出されています。
これも非常に重要なメッセージと言えるでしょう。
耳を澄ますと微かに聞こえる雨の音
思いを綴ろうとここに座って言葉探してる
考えて書いてつまずいて消したら元通り
12時間経って並べたもんは紙クズだった
君に伝えたくて 巧くはいかなくて
募り積もる感情は膨れてゆくだけ
吐き出すこともできずに
今僕の中にある言葉のカケラ
喉の奥、鋭く尖って突き刺さる
キレイじゃなくたって 少しずつだっていいんだ
この痛みをただ形にするんだ
何をしても続かない子供の頃の僕は
「これぞってモノ」って聞かれても答えに困っていた
そんな僕にでも与えられたものがあると言うんなら
迷い立ち止まった自分自身も信じていたいな
僕がいるこの場所は少し窮屈だけど
愛に満ちた表情でぬくもり溢れて
そして君の声がする
足元に投げ捨てたあがいた跡も
もがいてる自分も全部僕だから
抱えている想いをひたすらに叫ぶんだ
その声の先に君がいるんだ
耳を澄ますと確かに聞こえる僕の音
空は泣き止んで雲が切れていく
今僕が紡いでいく言葉のカケラ
一つずつ折り重なって詩(うた)になる
キレイじゃなくたって 少しずつだっていいんだ
光が差し込む
この声が枯れるまで歌い続けて
君に降る悲しみなんか晴らせればいい
ありのままの僕を君に届けたいんだ
探していたものは、目の前にあった
物語的には、「ボクノート」は「僕」という人物が「君」に心を伝えたいというテーマが中心になっています。
この曲はラブソングではありますが、それ以上に自己探求や自分の気持ちに向き合うこと、そしてどのように伝えるかという点が重要な要素となっています。
耳を澄ますと微かに聞こえる雨の音
思いを綴ろうとここに座って言葉探してる
考えて書いてつまずいて消したら元通り
12時間経って並べたもんは紙クズだった
最初の部分が本当に素敵ですね。
耳を澄ませば、かすかに雨の音が聞こえます。
その弱々しくもどこか寂しさを感じさせる情景が、見事に主人公の心情を表現しています。
この冒頭では、思考しては書き、そして消してしまい、結局は紙くずになってしまうという、進むことのできない状態が描かれています。
君に伝えたくて 巧くはいかなくて
募り積もる感情は膨れてゆくだけ
吐き出すこともできずに
今僕の中にある言葉のカケラ
喉の奥、鋭く尖って突き刺さる
キレイじゃなくたって 少しずつだっていいんだ
この痛みをただ形にするんだ
伝えたいと思いながらも、伝えることができず、ただ思いだけが膨れ上がっていく様子を率直に描いています。
切ない感情がますます大きくなっていきます。
そして、その大きく膨らんだ感情は、まるで「言葉のかけら」として形を持つように感じられます。
想いを言葉にする試みや、想いが視覚的で物質的なかけらにまで圧縮される過程が描かれています。
そのかけらは、固くて頑丈な印象ですね。
鋭く尖っていて痛みを伴っています。
しかし、そのまま鋭く尖ったままでは、君に伝えることはできないでしょうね。
何をしても続かない子供の頃の僕は
「これぞってモノ」って聞かれても答えに困っていた
そんな僕にでも与えられたものがあると言うんなら
迷い立ち止まった自分自身も信じていたいな
何をやっても長続きせず、「これが自分の真骨頂」というものが見つからない、という意味ですが、
こだわりや執着、あるいは自尊心かもしれませんし、他人よりも得意な分野や特別なものかもしれません。
そんな僕にも与えられたものがあると言われるならば、その与えられたものは「これが真骨頂」と言えるのでしょうか。
もしそうであれば、それはより特別な才能などを想像させます。
「迷い立ち止まった自分自身でも信じていたいな」
というのは、今は立ち止まってしまっている自分でも、何かしらの才能を持っていて再び動き出せるのではないかと信じたい、ということでしょうか…。
自分自身に対して否定的で卑屈な態度から生まれる言葉ですね。
僕がいるこの場所は少し窮屈だけど
愛に満ちた表情でぬくもり溢れて
そして君の声がする
しかし、ここで気づくのです。
現在の立ち位置は狭苦しく、立ち止まってもがいているかもしれませんが、それは愛に包まれた表情でぬくもりに満ちており、君の声が響く場所なのだということに。
「愛に満ちた表情でぬくもり溢れて」
この表現は君だけの愛だけではなく、周囲やさまざまな存在からも感じられるものと推測されます。
だからこそ、「そして」君の声が聞こえると表現されているのです。
足元に投げ捨てたあがいた跡も
もがいてる自分も全部僕だから
抱えている想いをひたすらに叫ぶんだ
その声の先に君がいるんだ
耳を澄ますと確かに聞こえる僕の音
空は泣き止んで雲が切れていく
自分自身がどうしようもない状態で、苦しさと孤独だけが支配していた僕。
しかし、実は周囲には愛が溢れており、君もそこにいてくれる。
もしも、僕が違っていたら?
もしも、この世界が違っていたら?
そんな思いが浮かぶこと、ありますよね。
ドラえもんも、タイムマシーンが存在することで、ある前提が生じます。
それは過去を変えることがタイムパラドックスを引き起こし、現在や未来の世界を消してしまう可能性があるということです。
もしも、僕が別の存在だったら、こんなに愛に満ちた場所かもわからないし、君とは一緒にいられなかったかもしれない。
そんな考えに至ることで、初めて僕は自分自身を、ありのままの自分を受け入れようとしているのです。
それがこの部分の前半、自己を認める歌詞に現れています。
後半では、ただただ叫び続けているだけで、それがうまく届かないかもしれない、小さくしか聞こえないかもしれない、でもそんな時にようやく君に僕の声が届くのだと、ありのままの自分でしか伝えられないのだと思っています。
今僕が紡いでいく言葉のカケラ
一つずつ折り重なって詩(うた)になる
キレイじゃなくたって 少しずつだっていいんだ
光が差し込む
この声が枯れるまで歌い続けて
君に降る悲しみなんか晴らせればいい
ありのままの僕を君に届けたいんだ
探していたものは、目の前にあった
このラスト部分は、本当に一つひとつの言葉が美しく、素晴らしいですね。
最初は僕自身が突き刺さるような言葉のかけらでした。
それを形にしていこうと圧縮しようかと考えていましたが、実際は一つずつ大切に重ねていくんだ、完璧じゃなくても構わない、少しずつでもいいんだと、僕自身の気持ちを大切に考えています。
君にちゃんと伝えることができたのでしょうか…。
この情景描写は、変化が本当に美しいです。
冒頭の雨のシーンから始まり、ふさぎ込んでいた状態を表す雲、素直な気持ちの言葉を光として描きながら、最後には光が差し込む美しい光の筋と晴れ渡る空が浮かび上がります。
探していたものは、君に気持ちを伝えられる方法でした。
それは、ありのままの自分から出るありのままの言葉、それがずっと目の前にあったのです。
この最後で、なぜ僕は「君に降る悲しみなんか晴らせればいい」と思ったのでしょうか?
それは歌詞を振り返ればわかります。
雨が降る曇りの中にいた僕を助けたのは誰だったでしょうか?
この歌の前半、言葉にできない、うじうじしている時、実は僕は君のことをちゃんと見ていませんでした。
溢れ出た気持ちに、僕は自分自身がふさわしくないのではないかと思い、僕はこんなにダメなやつだと自分を責めていました。
君に伝えること、伝えたい気持ちよりも、どんな言葉で伝えるかに意識が向いていました。
しかし、ふと周囲を見渡し、君の声が聞こえ、ありのままの自分を受け入れようとした瞬間から、やっと君に伝えるべきことは、どんな言葉で伝えるかではなく、ただひたすらにありのままの自分を伝えることが大切だとわかりました。
それが目的なのか、手段なのか、どちらが重要なのか…。
そういったことを言い出すと、仕事っぽくなってしまいますが、まあ、そういうことですね。
歌詞が思い浮かばなかった時、そのありのままを歌詞にしたのです。
そして、そのありのままの溢れるほどの想いが紡いだ詩(うた)だからこそ、この歌はとても美しい情景や心理描写、ストーリーになりました。
そのため、この歌がこんなに素敵なものになったのかもしれませんね。