日本の代表的な夏を表す名曲
本曲「夏休み」は現在では大御所フォークシンガーとなった吉田拓郎のヒット曲で、日本の夏を代表する幅広い年代層に愛される名曲である。
本作は、聴く者の解釈によって受け取り方が大きく異なる曲としても印象的である。
作者当人は「ただ夏休みを歌っただけである」と述べてはいるものの、「これは反戦歌ではないのか」と受け取っている人も多くいる。
作品自体をどう聴くか、どう消化するのかは結局のところ本人の自由であり、そういった意味でも、この曲の歌詞は考察に値すると言えるだろう。
以下、その内容を考察していく。
どちらとも解釈出来うる歌詞
麦わら帽子は もう消えた
たんぼの蛙は もう消えた
それでも待ってる 夏休み
当時、経済成長を続けた日本から、いわゆる田舎の風景が消えていくのは自然淘汰と同じような理由だったのであろう。
麦わら帽子をかぶり、田んぼにカエルを取りに行く。
そういった作者当人の昔の思い出をストレートに歌い出したと言える。
昭和中期に幼少期を過ごした年代にとって、多くの人の共感を呼ぶこのフレーズは、広く受け入れられたと想像するに難くない。
しかし、一部ネットでの広がりを見せた別の意見もある。
冒頭で述べたように、この曲は反原爆、反戦を歌ったものではないかという意見である。
麦わら帽子を被った子供が消え、田んぼのカエルも消えている。
消えるという意味が自然淘汰から、物理的な暴力で消えたという意味で捉えられた解釈である。
しかし、それでも夏休みがやってくる、という、懐かしさを歌った解釈とは別の、いわゆる悲しさを歌ったようにも取れるのである。
短いフレーズの中にも多くの意味が
姉さん先生 もういない
きれいな先生 もういない
それでも待ってる 夏休み
姉さん先生というのは、拓郎が谷山町立谷山小学校(現在の鹿児島市立谷山小学校)に在籍していた当時の担任の宮崎静子という名の先生が元になっている。
時が経ち、思い出に残る「姉さん先生」ももういない。
時の流れや昔を懐かしむ想い、様々な感情を短く表現している名フレーズだ。
そして、この節も別の意味でも解釈ができる。
吉田拓郎は広島にもいたことがあり、そこがさらに憶測を呼んでいる原因の一つでもある。
広島と言えば、言わずもがな日本で長崎と並んで唯一、原爆が落ちた土地であり、それと相まって反戦歌である、という根強い意見が生まれているのであろう。
「姉さん先生もういない」というフレーズは、時の流れで退職をした、という意味から、前節同様に不当な力によっていなくなった、という解釈にしたとするならば、全く別の意味の歌詞ととれるのである。
ストレートながらも感情に訴えかける歌詞
絵日記つけてた 夏休み
花火を買ってた 夏休み
指おり待ってた 夏休み
小学生時代、夏休みに絵日記をつける自由学習をやった方は多いだろう。
短い単語と歌い方で直線的に感情に訴えかける吉田拓郎らしい歌詞であると言える。
夜は花火を買い、家族で楽しむ。
そんな夏休みをずっと待っていた子供の頃の記憶。
当時の情景と相まってシンクロしたリスナーは多数いたに違いない。
悲しさが強く打ち出される節
畑のとんぼは どこ行った
あの時逃がして あげたのに
ひとりで待ってた 夏休み
冒頭のフレーズと同様に、時代の流れ、高度経済成長の荒波に揉まれていた当時の日本。
畑が少なくなり、ビルが建ち、田舎の風景が少しずつ減っていく。
畑にいたはずのトンボもいなくなってしまった。
そして、一人で迎えが来るのを待っていた、そんな夏休みの情景。
この節では、前項までと違い、物悲しさが強いパートになっており、特徴的な部分となっている。
また、別の意味でも捉えることができる。
今までの解釈と同じ方向性で、畑のトンボも自然にいなくなったのではなく、圧倒的な何か、つまり原爆でいなくなったとの暗喩であるという解釈である。
そして「ひとりで待ってた」というフレーズが、家族もいなくなってしまったという悲劇的な意味にも取れることから、反戦歌であるということを支持する要因にもなっている。
西瓜を食べてた 夏休み
水まきしたっけ 夏休み
ひまわり 夕立 せみの声
西瓜を食べ、ヒマワリに水まきをする。
たまには夕立があり、最後に、夏の終わりに命を終える「せみ」というフレーズで夏休みの終幕を例え、曲が終わるのである。
歌は一体誰のものか
1960年代から1970年代は反体制・反権威がフォークソングに求められる時代であった。
それにも拘わらず、吉田拓郎は自身の生き方や考え方を中心に歌い、時に軟弱と叩かれながらも、自らの言葉で訴え続けた。
その結果が多くのファンへ届いたのであろう。
実際に歌の解釈の仕方は様々で、作者が表現したかったことが全て正解であるということは無い。
曲という作品は独立したものであって、受け取り手の解釈、思考は誰にも制限できることはない。
そういった意味でも考えさせられる歌であると言える。