【虎/ハンバートハンバート】歌詞の意味を考察、解釈する。

『虎』とはどんな曲?背景と作品概要

ハンバートハンバートの「」は、2010年にリリースされたアルバム『さすらい記』に初めて収録され、その後2018年にリテイク版が『FOLK2』に収められました。
特に大きなシングルリリースもされていない楽曲でありながら、2018年にはお笑い芸人で芥川賞作家でもある又吉直樹が友情出演するミュージックビデオが公開され、注目を集めました。

この曲は、一見すると哀愁漂うバラードのように聴こえるかもしれません。
しかし、歌詞の中に込められたメッセージは非常に深いものがあります。
自らの限界に苦悩し、もがく人間の姿が描かれており、特に創作活動における苦しみや葛藤がテーマとなっています。
タイトルの「」は、単なる動物としての意味以上に、中島敦の『山月記』に登場する「」に通じる象徴的な意味を持っていることが、歌詞を通して浮かび上がってきます。

作詞作曲を担当した佐藤良成の内面が反映されたともいえるこの楽曲は、「自分が望む理想に到達できない苦しみ」や「社会との関わりの中で自己を見失う恐怖」が表現されています。
リスナーにとっては、自己の限界に直面しながらも進み続ける姿勢や、それに伴う葛藤と挫折を、心に深く響かせる作品となっています。

『山月記』との関係:虎の象徴するもの

ハンバートハンバートの「」は、中島敦の『山月記』との深い関連が語られています。
『山月記』は、中国の伝説を題材にした物語であり、主人公の李徴が自分の未熟さやプライドに苦しみ、最終的に虎に変わってしまうという物語です。
この「」という存在は、李徴が抱えていた「尊大な羞恥心」と「臆病な自尊心」を象徴しています。
李徴は詩人として成功を夢見ながらも挫折し、周囲との軋轢や自身の無力さに押しつぶされ、内面的な苦悩が彼を虎へと変貌させるのです。

ハンバートハンバートの「」における「」は、この『山月記』の象徴を強く意識しています。
歌詞に登場する「虎になれずに溺れる」というフレーズは、李徴が自尊心や羞恥心に苦しみ、最終的に人間から虎に変わってしまう運命を逆照射するかのようです。
主人公は、虎になることで自分を完全に捨て去りたいという願望を抱きながらも、現実にはそれを成し遂げることができず、自意識に囚われ続けます。

ここでの「」とは、自分を完全に解放し、社会の枠組みや自意識から逃れたいという願望の象徴です。
しかし、歌の主人公はそれができず、日々の苦しみから逃げきれないでいる。
この点で、ハンバートハンバートの「」は、創作の苦悩や自己との葛藤を描きつつ、最終的には『山月記』に登場する虎を借りて、現代人が抱える自己喪失のテーマを浮き彫りにしています。

歌詞に表れる創作の苦悩と現実逃避

」の歌詞には、創作における苦悩とそれに伴う現実逃避が繰り返し描かれています。
主人公は「人の胸に届くような歌がつくれたら」という願望を持ちながら、日々の創作活動に対して自分自身の無力さを痛感しています。
何度も「今日はやめだ」「メロディひとつできやしない」という言葉が繰り返されることで、創作に挑んでは失敗し、その度に挫折を味わう姿が浮かび上がります。

また、「酒だ、酒だ、飲んでしまえ」というフレーズに象徴されるように、創作がうまくいかないとき、現実から目を背けるための手段として酒に頼る様子が描かれています。
この行為は、歌詞の中で「昼間からつぶれて眠る」という形で現れ、主人公が自己の限界を認めつつも、その苦しみから逃げるための一時的な解放を求めていることが表現されています。
しかし、こうした現実逃避はあくまで一時的なものであり、根本的な解決にはならないことも示唆されています。

虎になれずに溺れる」というフレーズは、主人公が自分を完全に解放できない現実を受け入れざるを得ないことを象徴しています。
創作における理想を追い求めながらも、その理想に届かない自分自身に苛まれ、結果として現実から目を背ける。
これは、現実逃避の繰り返しと自己否定が絡み合い、創作活動における人間の深い苦悩が反映された表現と言えるでしょう。

この歌詞を通じて、ハンバートハンバートは、自己表現に苦しむ全てのクリエイターに共感を呼び起こすと同時に、その苦しみから逃れる術がない現実を鋭く描き出しています。

自尊心と臆病な羞恥心:現代社会における葛藤

ハンバートハンバートの「」における自尊心と臆病な羞恥心は、現代社会に生きる私たちが抱える葛藤と密接に結びついています。
歌詞中に描かれる主人公は、「人に届く歌を作りたい」と願いながらも、なかなかその理想に到達できず、自分の無力さを痛感しています。
ここには、自己実現を目指しつつも、他者の目や社会的な期待に囚われてしまう現代人の姿が反映されていると言えるでしょう。

尊大な羞恥心」と「臆病な自尊心」という二つの感情は、中島敦の『山月記』に登場する李徴を通して描かれるテーマでもありますが、それは現代に生きる私たちの内面にも共通します。
誰もが自己表現の場を持つことが可能になった時代において、他人からの評価に敏感になり、自分が思い描く理想と現実のギャップに苦しむことが増えています。
自尊心は傷つくことを恐れ、羞恥心は他者からの評価に対して敏感に反応し、結果として自分自身を抑え込んでしまうことが多々あります。

虎になれずに溺れる」というフレーズは、こうした葛藤の中で自己を解放できずにもがき苦しむ姿を象徴しています。
虎になることは、自分を完全に自由にし、周囲の価値観や期待から逃れることを意味しています。
しかし、現実ではそれが叶わないために、主人公は酒に逃げ込み、現実から目を背けることしかできないのです。

この「」の歌詞は、現代社会において個人が直面する自己実現と他者の期待との狭間での葛藤、そしてそれをどうにかやり過ごすための現実逃避を象徴的に描いています。
誰しもが抱える自意識の重さと、それをどう扱うべきかを問いかけているように感じられます。

どのように苦しみと向き合うべきか?結論のない問い

ハンバートハンバートの「」の歌詞は、最終的な答えを提示するわけではありません。
主人公は自分の限界や苦悩と向き合いながらも、その葛藤から解放されることなく、日々をやり過ごしている様子が描かれています。
虎になれずに溺れる」というフレーズに象徴されるように、現実から完全に逃れることはできず、自意識や社会の期待に苛まれ続ける姿が映し出されています。

この曲は、現実逃避や苦しみの中で生きることの難しさを強調しており、リスナーに「どのようにしてこの苦しみと向き合うべきか?」という問いを投げかけます。
自己実現を目指して努力するものの、常に挫折を経験し、そのたびに自己否定や無力感に苦しむ。
これに対して、曲は特定の解決策を提示することなく、ただその葛藤をありのまま描くことで、共感を呼び起こしています。

このような苦悩は、現代社会において多くの人々が共感できるものです。
自己表現の場が増えた一方で、それに伴うプレッシャーや期待に応えられない現実が存在します。
理想を追い求めるものの、それに届かない自分自身に失望し、逃げ出したくなる気持ちは、誰にでも経験があるのではないでしょうか。

」は、その葛藤を抱えながらも生きていくしかないという現実を描いています。
そして、その苦しみの中に、どのように折り合いをつけていくかは個々人の問いとして残されます。
答えのないこの問いこそが、「」が伝えたい深いテーマなのかもしれません。